町がどうしてこうなったか

土地の記憶

町のあちこちに、碑や標柱が立っています。そこで何があった場所なのかを、 郷土研究会が調べた記録から26件ぶん読めるようにしました。

出典 —『しんとくの史跡』新得町郷土研究会・1994年/新得町図書館蔵

原本は新得町図書館で読めます。

ここに載せているのは、場所・年代と、原本をもとにまとめた概要だけです。 本文と図版は掲載していません。

史跡の索引 — 26件

原本 p.1 — p.47
01苦闘之碑明治三十四年に着工した旧狩勝線の鉄道工事では常時一千余名が働き、タコと呼ばれた土工労働者が亡くなり沿線に埋められたと語り継がれている。p.1 明治〜昭和02十勝川渡船場跡大正三年、屈足二十三号の十勝川に、森利三良によって渡船場が開設された。p.3 大正〜昭和03新得小学校開校之地明治三十五年十月四日、新得町西一線に新得簡易教育所が開設され、町における公設の学校教育がここから始まった。p.5 明治〜昭和04佐幌原野開拓発祥之地明治三十三年、佐幌川の東側に広がる佐幌高台で、福井県出身の徳橋清助ら数戸が開墾を始めた。p.7 明治05福山小学校跡明治四十一年六月一日、新得町字新得西六線にトンネル沢特別教育所として開設されたのが、福山小学校の始まりである。p.8 明治〜平成06狩勝旧国道桜並木の由来昭和七、八年の春、新得村青年団が旧新内駅から狩勝峠にかけての旧国道沿いに、桜の苗木四百本を植えた。p.9 昭和07屈足発祥之地明治三十五年五月十三日、東郷実夫(サネオ)を中心とした鹿児島からの七戸・三十人が、屈足地区に最初に入植した。p.11 明治〜平成08南新内小学校跡明治四十年、新内地区に住民の奉仕で建てられた一教室の学校が、南新内尋常小学校の始まりである。p.12 明治〜平成09上川灌漑溝十勝川水門跡大正六年に設立された上川土功組合が整備した灌漑用水路の取水口として、十勝川右岸に水門が設けられ、大正十年ごろから約四十年にわたり屈足・人舞地区の水田に水を供給する起点となった。p.13 大正〜昭和10菅野光民殉難之碑大正七年六月、十勝川上流のトムラウシ地域を踏査中だった北海道議会の議員・菅野光民が、帰り道で手負いの熊に襲われ、四十一歳で亡くなった。p.15 明治〜昭和11北新内小学校跡明治四十四年、新得町字新内西六線に北新内特別教授場として開校し、児童数三十名で始まった学校跡である。p.19 明治〜昭和12ペンケ沢(岩松)駅逓所跡原本と照合中大正十五年、新得町字屈足東一線の岩松地区に、人と馬を乗り継ぐために置かれたペンケ沢駅逓所が開設され、岩野浅次郎が管理人を務めた。p.20 明治〜昭和13広内尋常小学校跡地原本と照合中新得町字新得西六線では、大正五年二月に屈足村で八番目の特別教授所が開設され、大正九年八月に広内尋常小学校となった。p.21 明治〜昭和14旧狩勝トンネル明治三十四年に着工した狩勝トンネル(九五四メートル)は、硬い岩盤と大量の湧き水に阻まれながら約六年をかけて完成し、明治四十年九月八日の旭川〜釧路間全通につながった。p.22 明治〜平成15屈足水田発祥之地明治四十年頃、森口茂吉が屈足での水田開発を計画し、二代目の森口忍夫妻が労務者とともに屈足西一線で造田作業を始めた。p.2416王子馬車軌道(馬てつ)跡大正十年、王子製紙株式会社が屈足から新得の駅土場まで約十七粁の馬車軌道を敷設し、馬が引くトロッコで木材を運んだ。p.27 大正〜平成17カムイロキの由来安政五年(一八五八年)、松浦武四郎が十勝川沿いの断崖を踏査し、アイヌの案内人から聞いた「カムイロキ」という地名を幕府への報告書に記録した。p.29 平成18石切山の由来明治三十七年頃、旧狩勝官設鉄道の工事中に佐幌岳中腹で花崗岩が見つかり、関新太郎がこの地で石材の採掘を始めた。p.31 明治〜昭和19松浦武四郎野宿之地安政五年四月十三日、探検家・松浦武四郎が箱館奉行の命で蝦夷地を調査する旅の途中、アイヌの案内人たちとともに一ノ沢(新得町字北新内西六線)で一夜を過ごした。p.33 明治20道立新得畜産試験場の軟石サイロ昭和六年、道立真駒内種畜場の敷地内で採れた軟石を積んで建てられた第五牛舎附属のサイロで、約七三〇個の軟石を使い、高さ十五メートルの規模を持つ。p.35 昭和21新得駅逓所跡明治三十二年八月、現在の西十線と八号道路の合流点に新得駅逓所が開設され、石狩・十勝間の山道を越えてくる開拓移住者が休憩や宿泊に利用した。p.36 明治〜昭和22新内尋常小学校跡昭和八年九月一日、北新内・南新内の両小学校を統合して新内尋常小学校が開校した場所で、明治四十四年からの開拓とともにあった北新内校を含む六十七年の歴史は、児童数の減少と新内駅の廃止による過疎化を受け、昭和四十九年三月の閉校式をもって終わった。p.37 昭和〜平成23悲願桜と碑大正五年(一九一六)十二月、開拓者・伊藤傳五郎は火災で妻子六人を一夜のうちに失った。p.39 明治〜昭和25新四国新得八十八ヶ所の由来香川県綾歌郡出身の脇タネが弘法大師のお告げにより発起し、昭和六年八月四日、新得山中腹に石仏八十八体を安置した霊場「新四国新得八十八ヶ所」が開山した。p.4226急行まりも号事件昭和二十六年五月二十七日午前一時十六分頃、釧路発函館行きの上り急行列車(まりも号)が字新内西四・五線間の下新内川鉄橋で脱線転覆した。p.45 昭和27バッタ塚の由来明治十二年から十八年にかけて十勝一帯でトノサマバッタが大発生した。p.47 明治〜昭和

原本の全町略図には27件の凡例がありますが、本文に独立した記事があるのは26件です。 凡例2番「伊藤傳五郎住居跡」は独立した見出しを持たないため、原本と照合できるまで欠番にしています。